活動レポート

第34回沖縄戦跡・基地めぐり

パルシステム東京では、毎年、沖縄の戦跡や基地をめぐる平和スタディツアー「沖縄戦跡・基地めぐり」(日本生活協同組合連合会、沖縄生活協同組合連合会共催)に参加しています。

2017年3月29日~3月31日の3日間、14名(組合員大人8名、子ども3名、職員3名)が参加しました。

 

1日目~沖縄戦の体験を聞く~(全体会)

会沢芽美氏:平和の歌

会沢芽美氏:平和の歌

会沢芽美氏:平和の歌

平良啓子氏:沖縄戦の体験を語る「対馬丸事件」

沖縄到着後、宿泊するホテルでの全体会に参加。全国の生協から集まった209人の参加者とともに、沖縄戦の体験者からのお話しや、現在の沖縄をめぐる問題などを聞き、沖縄戦について学びました。

会沢芽美さんの平和の歌は、沖縄戦時、避難先の壕(自然洞窟)で子どもの泣き声を日本兵にとがめられ、子どもを殺されたり、捨てたりせざるを得なかった母の苦悩を歌いあげた歌。悲しい歌声に涙を流す参加者も。

平良啓子さんからは、9歳の時、疎開のために乗船した対馬丸が米国潜水艦の魚雷により沈没し、6日間の漂流の後、無人島に流れ着き一命をとりとめた壮絶な体験をお話しいただきました。

夕食懇親会では、琉球舞踊やエイサーで交流

夕食懇親会では、琉球舞踊やエイサーで交流

夕食懇親会では、琉球舞踊やエイサーで交流

最後に参加者全員で、平和を願いカチャーシーを踊りました

2日、3日目~沖縄の戦跡・基地をめぐる~

2日、3日目は、3つのコースに分かれて、沖縄の戦跡や基地を巡りました。

基本コース

【2日目】糸数壕(アブチラガマ)→韓国人慰霊塔→平和の礎(いしじ)→県立平和祈念資料館→魂魄(こんぱく)の塔→嘉数(かかず)高台(普天間基地)

【3日目】辺野古→瀬嵩(せだけ)の浜→那覇空港

親子コース

【2日目】南風原(はえばる)文化センター・飯あげ(めしあげ)の道・沖縄陸軍病院 南風原壕群(20号壕)→ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館→魂魄の塔

【3日目】首里城→嘉数高台→那覇空港

辺野古・高江コース

【2日目】嘉数高台→辺野古→瀬嵩の浜→東村高江(ひがしそんたかえ)

【3日目】糸数壕(アブチラガマ)→ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館→那覇空港

◆戦跡めぐり【糸数壕(アブチラガマ)(基本コース・高江辺野古コース)】

南風原(はえばる)陸軍病院の分室となった壕(ガマ)。壕とは、戦時中、住民の避難や病院、地下の陣地として使われた自然洞窟のこと。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。真っ暗な壕の中で、壮絶な戦いを強いられた人々の苦悩を想像し、戦争のない世の中を願わずにはいられませんでした。

【沖縄平和祈念資料館・平和の礎(いしじ)・韓国人慰霊塔(基本コース)】

国籍や軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で亡くなった人々の名が刻まれた礎(いしじ)には、24万1000名を超える名が刻まれ、今も刻銘が続いています。

また、韓国人慰霊塔では、苦役労働者として配置された韓国人が多くいたこと、日本がはじめたアジアでの戦争によりアジア全体で2000万人が亡くなったことを改めて聞き、被害者としてだけではなく、加害者としての立場も痛感させられました。

【魂魄(こんぱく)の塔(基本コース・親子コース)】

沖縄で最初にできた慰霊の塔。沖縄戦の終わりごろ、多くの人々が追い込まれた米須地域では、あたり一面に死体が折り重なっていました。住民が遺骨を集めて納骨したこの塔には、住民、日本兵、米兵、3万5千人余の遺骨が納めらました。毎年、6月23日には県民が慰霊に訪れ、周り中に花が供えられると聞き、私たちも献花をさせていただきました。

【南風原(はえばる)文化センター・沖縄陸軍病院南風原壕群(20号壕)(親子コース)】

約30の横穴壕が掘られた陸軍病院。病院には、軍医、看護婦、衛生兵などのほか、ひめゆり学徒隊が加わり、傷病兵の看護にあたりました。軍の撤退が決定すると、重傷患者は壕に残されました。陸軍病院壕の一部を再現され、多くの遺品が展示される南風原文化センターを訪れ、当日の人々の苦悩に思いを寄せました。

【ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館(親子コース・辺野古高江コース)】

沖縄戦時、沖縄の中等学校の生徒はすべて戦場に動員されました。南風原の陸軍病院に動員され、傷病兵の看護にあたった222人の女子生徒と18人の教師で構成されたひめゆり学徒隊。その資料館を訪れ、学徒隊の悲劇を学びました。

【首里城(親子コース)】

現在は観光客で賑わい、2000年に世界遺産にも登録された首里城。しかし、沖縄戦では、日本軍により地下壕が掘られ、司令部がおかれたこともあり、米軍から3日間にわたる総攻撃を受け、消失したとされています。

沖縄の米軍基地をめぐる

【嘉数(かかず)高台から望む普天間基地(基本コース・親子コース・辺野古高江コース)】

日本軍が第一防衛戦として陣地を構えた嘉数高台。沖縄戦でもっとも激しい戦いが行われ、多くの死傷者がでました。嘉数高台公園の展望台からは、米軍の普天間基地を見下ろすことができます。基地から飛び立つオスプレイを見て、改めて、住宅街に隣接する基地の危険性を目の当たりにしました。

【辺野古・瀬嵩の浜(基本コース・辺野古高江コース)】

1995年の沖縄米兵少女暴行事件を機に、米軍基地の反対運動や普天間基地の返還要求運動が起こり、名護市辺野古付近への移設案が決まりました。しかし、珊瑚礁など豊かな海を破壊する辺野古の海の埋め立てに反対の声があがり、20年たった今も県民の間で激しい議論が交わされています。

【東村高江村(ひがしむらたかえそん)(辺野古高江コース)】

世界で唯一のジャングル戦のための戦闘訓練施設として建設された米軍基地。現在、高江周辺6カ所でヘリパッドの建設が進み、地元住民の反対運動が続いています。反対運動が続くテント村を訪れ、住民の方々のお話しをうかがいました。

参加者からの感想

3日間を通して、参加者からは様々な感想が寄せられました。(参加者の報告書より抜粋)

・沖縄での三日間があまりに衝撃的で、今、私が生かされている時代がなんと幸せなのかと痛感しました。いろんな年代の人に体感してほしい。現地の人の話を聞いてほしい。私達おとなとして、今何が必要で、何が出来るか考えたい。この沖縄での三日間は、私の人生に大きな転機を与えてくれました。

・辺野古に訪れて、青く美しい海を眼前に、現地のガイドさんと沖縄の人々が命がけで基地を造らせない闘いを20年以上も続けてこられたこと、反対派、賛成派とに地元住民が分断されていることなど、いろいろと現状を伺いました。基地移設は、沖縄だけの問題ではなく、日本国の問題なのだと痛感しました。

・本当に胸が痛むのは「20歳以下の子ども達がたくさん亡くなっている」ということです。戦争を起こした当本人は死ななかったのに、どうして各地から連れてこられた兵隊や、沖縄に住んでいた人たちが死ななければならなかったのでしょう。そのことを深く心にとめ生きていきたいと思います。(小学6年生)

・私は今年で14歳です。ひめゆりの子達は私と同じくらいの年齢です。壕から壕へ何キロもある山道を登ったり、負傷した兵士達を手当したり…想像を絶する様な思いがそこにはあったと思います。(ひめゆり平和祈念)資料館ではそのような思いを感じられました。(中学1年生)

・「あなたはどう考えるのか。沖縄にはそのための材料がたくさん揃っている」ツアーの間ずっと問いかけられていたような気がする。地上戦を体験したがゆえに、国や軍の怖さを知っている沖縄の人たちの闘う姿に、一種のまぶしさも感じる。国家VS個人の闘いに無力感さえ覚えてしまう私自身は、何をどうすればよいだろう。現時点では関心を持ち続け意思表示をすること。あまりにも知らないことが多すぎる、もっと知らなければ、と感じた旅だった。

・(糸数壕は)大変足元の悪い、懐中電灯なしではいかれないようなところでしたが、行って初めて沖縄戦の実際にほんの少し触れたように感じることができました。深いガマの中で亡くなられた方々の無念を思うと、命こそ宝である。との沖縄の叫びが聞こえてくるように思いました。

パルシステム東京は、2014年に策定した平和政策にもとづき、スタディツアーや学習会、食を介した交流や映画上映など、さまざまな形式で、平和な未来のために必要なことを学ぶ場を作り出しています。学んだことをもとに、一人ひとりが考え、自ら行動することが、私たちのめざす社会に向けての第一歩と考え、今後も平和を学ぶ場を継続していきます。