活動レポート

子どもに伝える戦争と平和~語りつなごう 平和への願い~<前半 被ばくの証言>

2023年7月15日、「子どもに伝える戦争と平和」と題し、戦争、原爆を子どもに伝えることについて考えるイベントを開催しました。長崎で原爆被害にあった富田芳子さんのお話を聞き、次に子どもの本の専門店である、株式会社クレヨンハウスのスタッフの方から、戦争や平和を扱った絵本が紹介されました。

富田 芳子(とみた よしこ)さんの被ばくの証言

富田さんは戦時中、台湾から引き揚げ、日本に戻ってきた後の6歳の時、長崎で被ばくをしました。定年退職後、小学校などで戦争体験を語り始めます。

 

原爆の瞬間と直後

その日は近所の子ども3人と妹と弟一緒に遊んでいて、お昼を食べに家に入ったんです。お手洗いに入ったら、窓の外がぴかっと七色に光ってどーんと音がしてグラグラグラっとゆれた。お手洗いから出たら、母が大きな声で「ここに伏せなさい弟の顔をぬぐっていましたね。

その後防空壕に行きなさいと母に言われて、防空壕で妹と二人でじっと座ってました。

しばらくしたら、その大家さんの奥さんとうちの母が大板に乗せて人を運んできたんです。

よく見たら、背中がもう丸やけどなんですよ。

それは隣のお嬢さんで、私たちと一緒に遊んでいた人のお姉さんだったんです。その日の朝、お母さんと娘さん二人が買い出しに行っていて、うちの中に最初に鍵を開けて入ったのがお母さんで、その次に入ったのが次女の方なんです。その次女の方が戸板に乗せて運ばれてきて、そこに置かれたまま運んだ方たちは外に出て行ってしまいました。

私は「こんなにひどい人を何度そのままにしておくんだろう」と思ってました。そしたらまた次に、人を運んできたんです。それはお隣のお嬢さんの長女の方で、家に入るとき一番後ろにいたらしいんです。

それはほんとひどかった。目は片方は潰れてますし、片方の目は鼻のところまで飛び出してしまっていて、鼻もなくなっていました。

私は誰だか最初誰かわからなかったのですが、あとで母に「隣の上のお姉ちゃんだ」って聞いてびっくりしました。

結局この方が一番後ろにいたために一番ひどい爆風を受けてしまったんです。よく爆風を受けるとこの内臓が飛び出すっていいますけどその通りなんです。

最近よく学校に行って講演というか、このお話すると皆さんね、地震が来たり、何かあったときには耳を塞ぎなさいって教わってるって聞くんですけど、私たちが子どもの頃は、目と耳を意味を親指で押さえると教わりました。

その通り。今皆さんそういうことをね忘れてるんですけども、爆風とかそういう時には目を必ず押さえなきゃいけませんよ。

この隣のお嬢さん二人を見た時唖然としました。よく私たちは助かったなと。助かった私たちと家に入る時間が、もうほんの一分ぐらいの差なんですよ。私たちは母親が帰ってきたので、家の中入ってものの一分かそこらですよね。隣の家族も、うちまで帰ってきてるんです。

帰ってきて一番最初に入ったお母さんはガラスの破片なんかもケガはしてましたけどこういうひどい火傷はしてませんでした。

で、このうちの家族はね、お父さんはその工事現場に行って足を怪我しています。ご長男は学校の方でどっか軍事工場に行って行方不明になっていましたで、二人のお嬢さんは今言ったような大やけどをしてます。

お母さんも怪我している。無傷だったのは末っ子の三年生から五年生ぐらいのお嬢さんだけだったので、その後はもう献身的にお母さんやお姉さんの面倒をみていました。

 

そうこうしてる時に、すぐそばに私たちが生活で使う井戸があったものですから、その井戸のところにね、もうずらーっとやけどした人や怪我した人が並んでいるわけですよ。水が欲しくてね。

私たちは、幸いに母が朝の農作業に行く前に、かめいっぱいの水を含んでたので、、みんなにもどうぞどうぞって言って水を飲ませてあげたんです。でも水を飲むと死んじゃうんです。体に大やけどすると、水を飲むと死んじゃうんですよね。

だからね。「水をください。水をください」って言われても、私たちは「ごめんなさいごめんなさい」っていってあげられなかった。

その苦しみを未だに私たちは抱えてるんです。そういう意味で、原爆が落ちたところに大きな噴水があったり、いろいろ水をたっぷり貯めているところがあるんですけど、そういう、せめてお水だけでも飲んでほしいっていう気持ちでやってるんだと思います。

で、結局ね、今言ったように、水を飲んで死んじゃうから、うちの周りのそこら辺に死体がパタパタパタパタ倒れてるんですよ。

逃げていく途中であった出来事

隣のおじさんが保健所から帰ってきたんです。そのおじさんが言うには「今日の爆弾は何かわからないけども、とにかくすごいのが落ちて町が、長崎市内全滅だ」と。

それで私の母に、「あなたはね、小さい子が三人もいるんだから、とにかくこの暑さでどんな病気が流行るかわからないから、もう一刻も早くここから逃げなさい。とにかく早く逃げなさい」「何の交通の機関も食べ物もないから市内に行っちゃダメです。行くとしたら田舎の方です」って言いました。

それで、おにぎりとか荷物、着替えだけ持って港方へ向かって家族でトコトコトと歩いて行きました。

そうこうしているうちに持ってた水筒の水が全部なくなっちゃったんです。

それでどっか井戸があったらお水をもらいたいなと思ってウロウロしながら歩いてましたら、井戸が見つかったのでここでもらおうと思ってそうそばに寄って行ったら、その家の人が気がついてね。中から出てきてパーッとね。つるべを持ってうちの中入っちゃった。

それでね、「すみませんけど、持ち合わせの水がみんななくなったので、せめて、お水を水筒にいっぱいください」ってお願いしたらね、「あんたたちはどっからきたんだ。市内から来たんでしょ。市内から来た人にはどんなバイキンがついてるかわかんないから、来ないでくれ。あっち行け、あっち行け」って、もう全然話にならない。

それでも小さい子がいるから、せめてお水だけでも分けてください、って言ったんですが、とうとう出てきませんでした。仕方なく「先が思いやられるね」なんて言いながらもトボトボまた田舎に行くわけですよね。どっかにね、わかってくれる人がいるだろうという気持ちで行くわけですよ。当てはないんですけどね。

 

 

そうしたらもう日が暮れた頃に一軒の農家についたのね。

そこはお父さんが兵隊に取られて、子供さん三人と若い奥さんが留守を守って農家をやってらっしゃる。スイカがあったんです。それで母は「スイカをわけてください」って言ったら気持ちよく分けてくれた。「あなた、これからどこ行くんだ」って言われて「行く当てがない」って言ったら、「こんなところで何もないけども、土間なら貸してあげられるから、土間でよかったらうちで過ごしていきなさい」と親切にしてくださったのね。それでむしろを三枚寄越してくださって。それをね。二枚土間に引いて、一枚をお腹の上に乗っけて布団代わりにして寝たんです。そのあと、そこのうちの奥さんが見かねて「うちでよかったら、農家を手伝ってくれ」って言ってくれたんです。で、母はもう何でもする気になってるから「お願いします」って言って、そこで置いてもらうことにしたんです。

昼間は私は芋づるを牛小屋まで引っ張っていく手伝いをしました。妹は弟の子守。母は奥さんと一緒に農作業。そういう仕事をして、夜はまた土間で寝るんですけど、どうにもおねしょを繰り返しちゃう。それがね、三日ぐらい続いたの。

昼間疲れちゃってるから、おしっこに行きたいなんて感じずに寝ちゃう。それが三日続いたらうちの母もさすがに女の子には良くないっていって、うちへ帰ることにしたんです。

それでまたトボトボと歩きながら、持ってたお米と水をたくさん背負ってうちに帰ってきた。

 

うちの二階にはもともと、おじいちゃんと、そのお孫さんの男の子が学校に行くために住んでいたんですよ。帰ってきたときそのおじいちゃんは「孫が見つからない。一週間探したけど見つからないからもうダメだと思う」なんて言ってました。

で、そのおじいさんが「今なら、五島から遺族を探しに来てる人がたくさんいるから、その船に便乗して向こうへ渡った方がいい」って言ったんですよ。私の母の一番目の姉さんが五島の南松浦郡っていうところにいたものですから、そこを頼っていくことになりました。持てるだけのおにぎりと水筒一杯の水をもって波止場まで歩いたんです。

その当時はもう何キロあるなんてそんなの全然頭になかったんですけど、戦後ね、60年経ってタクシー乗った時に運転手さんにね、私、あの日、あの住吉のところからここの波止場まで歩いたんですよって言ったらね、「これ10キロもあるんだよ」って言われたの。

10キロの道をね、荷物を背負って、それも途中はまだ死体がごろごろしている中を行ったんです。そのときに、目のまわりがピンクになって、目の力がないんですけども、それでもね、水をくださいって水を求めてまだ生きてた人が、まだいたんです。おそらくもう原爆が落ちて一週間は経っていたけれども、死にきれないで苦しんでいる人がいました。

それを考えると、とてもじゃないけど許せないと思いましたね。

結局私たちはなんとかそこを逃れて五島の方へ行く船を探し当てて、母の姉のところに行きました。

伝えたいこと

12月頃に父が帰ってきて、私たちは落ち着いたころに長崎に帰ってきたんです。

その頃は進駐軍がいっぱいいました。私の母は若い頃、結婚する前に、神戸で市議会議員のうちで働いていて、その頃から外国人の、女性に対する暴力の相談があったみたいです。そういう話を聞いてたので、母は「ここでの女の子を育てるのは大変だから、ここに居たくない」って言って、天草の父の田舎に行ったんです。それで、私は成人するまでそこにいました。

 

自分が原爆にあっていることで、いろんな差別があるなっていうのを感じました。なので、もう田舎にいたんじゃ一生結婚できないと。結婚なんかどうでもいいけども、とにかく田舎にいたんで何もできないなと思って、東京にでてきました。もう東京で出てきて60年近くなるんですけども、大したことはできないけども、あの時無残に殺されていった人たちのことをせめてみんなに知ってほしいと思うのね。

戦争をすると、罪もない人がどんどん殺されちゃうし。せっかくある文化だとか、いろんなものが全部なくなるんだということをね。みんなに伝えていく役目を、私がしなくちゃいけないんだと。

少しでも原爆のことを、あの時、無残に殺された人のことを、私は黙っていてはいけないんだと。あの人たちがどんな苦しみで死んだっていうことをね。

せめて分かる人だけにも、聞きたいという人だけでも伝えていって、核兵器は人間と共存できるものでないんだと、絶対に戦争はしていけないんだと。

 

母に「なんで無謀な戦争をしたんだ」って言った時に「わからない。知らないうちに、戦争になった」っていうのを聞いたとき「えっそんなことってあるの」って「知らないうちに戦争になったって、そんな無責任なことって。なんで大人は黙ってたんだろう」と思いました。

だから私はせめて自分がまたこうやってお話ができるうちは皆さんに一緒に考えていただきたいなと思って、おしゃべりしてます。

どうもありがとうございました。

後半は、クレヨンハウス スタッフの方より、子どもに戦争や平和を伝えるときにお勧めの絵本が紹介されました。

後半は、クレヨンハウス スタッフの方より、子どもに戦争や平和を伝えるときにお勧めの絵本が紹介されました。