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戦争体験を募集しています

戦争を実際に体験した人の超高齢化が進んでいます。

戦争の記憶を風化させないため、自分で体験した、又は人から聞いた、見た、戦争の話を募集します。個人情報は不要です。

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※一部記述を変更させていただく場合があります。

戦時中、広島県大竹市に住んでいた夫の母は、原爆が落ちた後歩いて避難してくる人々を見て「お化けがきた!」と泣き叫だそうです。泣いてないで、水をあげればよかったのに焼けただれた人々の恐ろしさに足がすくんでしまったと後悔していました。幼い子どもだった姑にすら罪悪感を感じさせる悲惨な体験です。

マレーシアの飛行場で整備をしていた父。飛ばす飛行機がなくなって、ドラム缶の燃料を燃やして酒代わりに飲んだそうです。火を消すタイミングにコツがあって上手なヤツが居るんだよと笑って話していたのを思い出します。

父はマレーシアの飛行場で整備をしていたそうです。敵の機銃掃射に物陰に隠れる暇もなくその場に伏せて、ケツに当たれと思っていたそうです。攻撃のやんだすきに隣に伏せていた戦友を背負って物陰へ。父は無事でしたが、父の背負った方は即死だったそうです。50センチの差が生死を分ける。印象的なエピソードです。

いつもはあまり語らない昭和5年生まれの父に、元気なうちに聞いておこうと思って尋ねた時の話です。

昭和20年3月10日の未明、空襲警報が鳴り、何かいつもと様子が違うと思った父と家族は早めに大八車に家財を積み、避難し始めたそうです。 しばらくすると、四ッ目通り(江東区)の千石町交差点のところで、爆弾が落ちたので、大八車ごと家財を捨て、その交差点を南砂方向へ逃げたそうです。 そこは木場の材木問屋の材木を運ぶ為の馬車屋さんが軒を連ねていた通り(最近まで運送屋さんが多い通りだった。馬頭観音碑もある)で、火や騒ぎで驚いた馬たちが暴れ、逃げていた人の中には馬で蹴られた人もいたとのこと。 また、前を逃げていた女の人は背中の赤ちゃんに火が付いて、伯母たちが着ているもので消してあげたとのこと。

その後、その通りを明治通りへ出て、南の方へ逃げ汽車工場(現在、日曹橋付近の南砂の団地)の敷地に入り水溜まりに飛び込んで一夜を明かし、助かったそうです。

祖父は警防団の団長だったので、逃げずに地域に留まっていたそうですが、行方不明のままお墓に遺骨は入っていません。

伯父は食べ物の好き嫌いのない人でしたが、晩年入院中に母がナスの鴫焼を届けた際に言ったそうです…「ナスの焼いたのだけは嫌なんだよ…焼け野原で見た焼けた死体を思い出すから…」

祖父の実体験です。戦時中は学生で、工場のようなところで作業をしていたようですが、食べるものもろくになく、空腹と下痢が続いてついに逃げ出したことがあったそうです。田舎の方でしたので、農家に助けを求めたところ、ご飯と野菜をたらふく食べさせていただいたとのことで、そのようなものがあることにとても驚くと同時に、とても感謝したとのことでした。

祖母の実体験です。空襲の時、住んでいた家の庭の池に爆弾が落ち、その衝撃で、泳いでいた金魚が全部、窓ガラスに貼り付いてしまいました。しかし、池に爆弾が落ちたことで家は無事でした。そのため、家族みんなで「お金魚様が家を守ってくださった」と感謝したとのことです。

東京大空襲で沢山の家が焼けた。自宅近くの神田川には熱さを逃れようとした人が大勢押しかけたが、みんな亡くなった。落ちた爆弾の熱でお米が炊けていた。あとで食べようと戸棚に置いていたお饅頭が空襲により食べられなかったので、父はそれから好きなものは一番最初に食べると言っておりました。

母は女子挺身隊として、広島の呉の海軍工廠の飛行機工場で働いている時、度重なる空襲で何度も死の恐怖を味わい、広島への原爆投下を呉から目の当たりにし、終戦後、ふるさとに帰るため広島駅に寄り被爆しました。「もう二度と戦争をしてはいけない、核兵器を無くしてほしい。」それが母の願いでした。

父は満州の大連で生まれました。祖父が満州で商売をするために、大陸に渡って 戦況が激しくなるまでは現地の中国人とは友好的で、餃子の作り方を教わったりして その餃子のレシピは今の我が家に受け継がれています。祖父は満州から出征もしました。祖父は晩年、戦争は残酷だ!民間人でも女性でも子供でも平気で銃を向けて打つよつに訓練される、でも自分は残してきた家族のことを思うとどうしてもそれができんかったなあ〜と話していました。

終戦になり、引き揚げが決まったときも 商売仲間の中国人の手助けで満州からは何とか逃げることができたが、引き揚げ最中に中国の内戦が勃発し、日本人の電車だとわかると中国人から投石を受けた。家族が行方不明になってやっとの思いで助け出されたり、命からがら港にたどり着いて 引き揚げ船に乗ったが、栄養失調か感染症かでまだ赤ちゃんだった父の弟が船の中で亡くなった。亡くなっていることがわかると遺体は海に投げられてしまうので、亡くなっていることを隠して日本に連れてきて埋葬した。

長崎生まれの母は、原爆投下の時3歳位だったそうです。 市内中心部の住まいから海を隔てた地区に家族で疎開していたので、直爆は逃れたのですが、ドカンという爆音に驚いて洗面器を被って押入れに隠れたとのこと。 数日後、市内から被曝した方がたが瀕死の状態で村にもこられ、水を欲しがっていたので、母があげようとすると、水をあげたら死んじゃうと大人から怒られたと言っていました。長崎市の家財は焼失し、全てを失った一家の苦労に胸が痛みます。 被爆者の会に協力していた母も昨年(2022年)亡くなりました。 記憶を孫に繋げられるよう模索しています。

祖母の弟が、関東軍でフィリピンに行った、終戦を知らずジャングルで潜んでいたら、「日本の兵隊さん、戦争は終わりました。出てきて下さい。」と、放送していた。初めは信じられなかった。と、話していました。帰って来た時は、ボロボロの格好だったとの事でした。

祖母の兄の一家が、満州にいた。終戦引き上げて来たとき、兄の奥さんは、丸坊主になって男の人の格好をしていて、一家はボロボロの服を来て、まるで乞食の様だった。

母がまだ5歳位の頃、東京から家族で群馬県に疎開。雪の降る中裸足で、頑張れ頑張れと歩かされた。

三重の津市で12歳で終戦を迎えた義母。 「私は花火がどうしてもダメ」と、夏が来ると言っていました。ヒュー、ドッパーン!という音が、焼夷弾を思い出させるのだと。

母は14歳、東京大空襲の日、空から焼夷弾が雨のように降った。防空壕にいた時、爆弾が落ちた、兄の兜が飛んで、2つに割れた。家の布団を引っ張り出して水に浸け、2人は、それを被って荒川土手へ逃げた。家の方は、真っ赤な火の海になっていた。

勤労動員で毎日兵隊さんの軍服のアイロンかけ担当した女学生の母は押さえている左の指がすり切れて指紋も消えたと言ってました(戦後指紋が戻ったそうです)

花火大会に行った時そばに居た誰かが「空襲を思い出すねえ」と言っていたのを耳にしました。花火が打ち上がる音が爆弾の落ちてくる音に似ていたようです。

当時母は石巻に住んでいましたが、仙台空襲の炎が見えたそうです。

父が妹と歩いていたら、役人に止められ、デートと勘違いされて、この非常時にと殴られたそうです。確かめもせず、思い込みで殴るなんて酷いですよね。

戦争は文化にも影響します。音楽好きの父は学生時代ハモニカ部に入っていましたが、敵国音楽禁止の中、好きな音楽を聴いたり演奏したり出来ませんでした。ある日、家でレコードを聴いていたら、役人がやって来ました。敵国音楽を聴いていると近所の人が通報したらしいのです。その時父が聴いていたのはドイツの音楽でしたので、ことなきを得ましたが、悔しくてたまらなかったそうです。