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平和

8/4~8/6「ヒロシマ平和ツアー」に参加しました。

2015年09月21日

パルシステム東京では、毎年、広島、長崎で原爆の投下日に合わせて企画される平和スタディツアー「ピースアクションinヒロシマ/ナガサキ」(日本生活協同組合連合会、広島県生活協同組合連/長崎県生活協同組合連合会共催)に参加しています。

戦後70年であると同時に、原爆投下から70年を迎えた今年、8月4日(火)~6日(木)の「ヒロシマ平和ツアー」には、組合員大人5名、子ども5名、組合員理事1名、事務局2名の計14名が参加しました。

今年のテーマは、「継承と創造~被爆70目、そして未来へ~」。3日間を通して、被爆の実相を学び、核兵器廃絶への強い思いと、平和への願いを共有しました。


一日目:8月4日(火)

◆(被爆の証言)川から見る被爆の実相
被爆後 たくさんの人々が、水を求めて原爆ドームに沿った元安川等に飛込み亡くなりました。遊覧船に乗り元安川・本川を廻りながら梶岡さんより当時の証言を聞きました。
はじめに当時の地図にふれ「真っ白なところは軍事基地、地図で真っ白にするとは国民に知らせない、ということ」廣島(ひろしま)は戦時中、大本営(最高統帥機関で東は東京、西は廣島)が置かれており、戦争に必要な人員・物資を送り込んだり、兵隊が外国から帰ってくる軍都でした。戦争が起こるたびに繁栄したそうです。
(遊覧船から眺める原爆ドーム)
  • 《ピカ》
    炸裂時の温度は数百万度、リトルボーイも蒸発させてしまいます。1秒後には直径280mの火の玉に膨れ上がり表面温度は6,000度(太陽も6,000度)、地表は3,000度から4,000度にもなります。
  • 《ドン》
    一瞬で数百万度に。空気がものすごい勢いで膨張(秒速440m)します。音速(340m)を超えると衝撃波が発生します。その音がドンです。音と共に爆風が廣島の町を襲い、その圧力は1平方メートルあたり20トンから30トンと言われています。
「3,000度では体は溶けず、皮膚の下数ミリの水分が飛び、ズルっと皮が剥ける。しかし爪があるから落ちずに止まる。擦れると痛いから腕を前にするが、皮が重く腕が下がる。だから、お化けみたいに皆同じような格好で歩き、どこに行くという訳でもなく彷徨い、前の人について行っている様にも感じた。8月6日 は風が吹いて寒かった。当時亡くなった人を粗末に扱ったことを非常に後悔している。裸なのは、爆風が全ての服も燃やし剥ぎ取るから」そう、船から見た景色と市民が描いた絵を照らし合せながら語って下さいました。

 

 

◆千羽鶴の献納

組合員さんに平和への祈りを込めて折っていただいた千羽鶴を、献納しました。DSC00009.jpg

世界各地から、献納に来ている様子でした。

こうして献納された折り鶴はその後、折紙やハガキとして再利用されています。

下の写真は、献納場所にある「原爆の子の像」です。戦後、白血病で亡くなった佐々木貞子さんをモデルにしたものです。

(原爆の子の像)

 

◆広島平和記念資料館見学

(平和記念資料館)

先ほど梶岡さんの話していた状況がわかる展示品が目の前に置かれていました。被爆者の遺品や建物の一部、黒い雨がかかった壁は、本当に雨は真っ黒く墨のようです。時を超えて二度とあってはならない、忘れてはいけない、全ての展示物が原爆の惨状を物語っていました。 

この時期、山口県にて世界スカウトジャンボリーが開催されており、162ヶ国、3万人の青少年が集結していました。その中の平和プログラムで連日多くの青少年が訪れているそうです。資料館も同様。静かにゆっくり1つずつ見学し、心に刻もうとしている様子を見ると、どうぞ帰ってから家族に友人に伝えてほしいと願ってしまいました。

また、最初に梶岡さんからお話を伺っていたので、想いを馳せることが出来るスケジュールでした。

 

◆(碑めぐり)平和公園内親子コース

平和公園には有名な原爆死没者慰霊碑以外にもたくさんの碑や像があります。ボランティアの被爆者の方と一緒にその中の一部を解説とともにめぐりました。その中の一つが、1963年に建立された峠三吉詩碑。28歳の時に自身も被爆し、その後詩人として『原爆詩集』と通じて原爆や戦争の悲惨さを訴え、世界的な影響を与えました。碑文には次のような詩が刻まれています。

(峠三吉の詩)

「 ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ こどもをかえせ

             わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ

             にんげんの にんげんのよのあるかぎり

             くずれぬへいわを

                 へいわをかえせ     」

短い詩ですが、読めば読むほど原爆の無残さを感じます。特に「わたしにつながる にんげんをかえせ」というのは、生き残った被爆者がその後どのような苦しみの中での生活を強いられたのか、峠三吉が1953年(原爆投下から8年後)に亡くなっていることからも想像することができます。

 

◆(碑めぐり)広島城周遊コース

(広島城)広島城は、原爆被爆によって焼失するまでは、江戸時代から約350年間存続していました。案内人のタマキさんのご説明では、平成3年に復元完成した「表御門」は、きれいに復元されている様に見えるが比重がかかって危ない端の角の石以外のほとんどは、被爆石で再現されているとのこと。被爆した石は角が丸く赤く焼け焦げているのがわかります。

続いて、半地下の防空作戦室へ。第一報はここから行ったとの説もあります。天井は低く、暗く、漂う空気も重苦しい雰囲気。爆心地から790mにも関わらず中にいた人は助かっていました。鉄筋コンクリートで天井の厚さは70㎝、壁は40㎝もあり空襲に耐えられる様に作られていたそうです。

 

 

二日目8月5日(水)

◆子ども平和会議

全国の生協の小学校2年生~高校3年生まで、総勢48名が参加しました。「平和な世界をめざして」をテーマに、原子爆弾による被害とともに、これまでの平和活動について学習会をしました(講師:広島文化センター荒瀬尚美さん)。その後、グループディスカッションで「核兵器や戦争など争いごとをなくすために私たちができること」について話し合い、「思いやりをもつこと」「友人を大切にし、みんなと仲直りすること」「すべての国が一致すること」「ヒロシマのことを忘れずに、みんなに伝える」など、子どもたちひとりひとりが、真剣に考えたことを、分かち合いました。

(子ども平和会議学習会)(子ども平和会議発表)

 

◆(被爆の証言)入市被爆の新聞記者、浅野温生さんが伝えたかった被爆の実相DSC00153.jpg

入市被爆者であり、中国新聞社の記者でもあった浅野温生さんは、投下直後にヒロシマに入って被爆(入市被爆)されており、当時の様子を話してくださいました。(入市被爆者とは、原爆投下後2週間以内に救助活動や肉親捜しなどで被爆地から約2kmの区域内に立ち入った人のことをいいます。)

「建物疎開は1、2年生と1日交代で行い8月6日は登校日だったが、東練兵場の草むしりに変更となった。あの日、私は現場にいなかった。授業がないならと、朝から母の郷里上蒲刈島へ出兵中の叔父の差入れを調達しに行った。島に着くと浅瀬には戦艦が沈んでいるのが見えた。その瞬間、水面に光がキラキラしていて雲がサーッと広がっていった。警戒警報は出ていなかった。何があったのかわからなかった。

8月7日、広島が全滅したと聞き、村長だった祖父と医者を連れ広島へ引き返した。終点の広島は壊滅状態で家まで12キロ歩いた(放射能を知らないので恐くなかったそうです)。当時の現場が凄まじかったからか、残留放射能のせいか吐きそうになった。浅野さんの通っていた二中の1年生は、爆心地から400mで作業、ほとんど即死に近い状態だったろう。」そう、当時の様子を語ってくださいました。

浅野さんは遺族の手記「碑(いしぶみ)」を読み、「海ゆかば」を、歌いました。込み上げてくるものを感じ涙目のようでした。

8月6日の作業の割振りがそのまま生死を分けたのです。「生き残った者には死者に対して後ろめたさの様なものがある」とおしゃっており、また、「新聞記者として多くの被爆者を取材いくら訴えても何も変わらないじゃないか、バッタの歯ぎしりみたいだ。」その言葉が、強く印象に残りました。

「当時の地獄絵図が蘇ってくる。そこに人間の暮らしがあった。家族の苦しみ、無念の思いが染みついている。そこまで想像してほしい」と語ってくださいました。

私たちに出来ることは記憶を伝えること。平和をつなげるために、世界に向けて発信し続けなければ、と思いました。

 

◆虹のステージ・虹のひろば

日本全国から生協が集まるイベントに参加しました。今年のテーマは『継承と創造~被爆70年、そして未来へ~』です。そのテーマのとおりとても印象的だったのは子供たちの存在です。午前中に子供平和会議が行われ、小学生から高校生までの子供たちがグループに分かれ、自分たちが平和について考えること、できることを話し合い、その結果をステージ上で発表しました。また、高校生の演劇、合唱団の合唱など子供たちが積極的に戦争について学び、自分たちがこれからの時代の平和をつないでいくのだという思いを強く感じることができました。また、各生協のブースや他団体のブースなどを自由に見て回ることができ、生協が行っている平和の活動を知ることができました。

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◆関千枝子先生による、建物疎開作業で亡くなった動員学徒の碑めぐり

 ss-IMG_7716.jpg空襲により民家の延焼を防ぐために、強制的に家屋を壊し、道路や空き地を広げる作業が、当時の政府により行われました。それが建物疎開作業です。広島 では8月に全市をあげての作業を行うことになり、その主力は、まだ、勤労動員 に行っていない12.3歳の少年少女でした。平和記念公園の噴水南にまっすぐ に東西に伸びる通称「100m道路」は、いわばこうした作業に動員されて死んで いった子供たちがつくった道路です。

関先生は、広島で被爆体験をされたノンフィクションライターです。先生によるご案内で、この平和大通りの、市立高女原爆慰霊碑、被爆動員学徒慰霊慈母観音像、第一県女原爆犠牲者追憶の碑等、を巡りました。参加者の半数が中学生、当時被害を受 けた子たちと同世代でした。

平和大通り.jpg

 

当生協では、今回の平和ツアーの事前学習会に、関先生を講師としてお招きし、当時の様子をお話していただきました。その学習会で聞いた場所に立ちます。長く、ずっと真っ直ぐに続く平和大通り。「100m道路」と言われている。道路の部分だけでは100mに見えず次の碑に向かい歩いている時に聞いてみると、その両脇の緑地帯も含めて「100m道路」であるとのこと、納得しました。この幅の広い道路の基を中学生が作ったのだそうです。現在はきれいに舗装されていて立派な道路です。道路沿いの両脇には大きな木が青々と並んでいるのは、植樹を呼び掛け、日本各地また中には世界の国々から送られてきたものだとYWCAの方に聞きました。子どもたちが「勉強しなくてもいい」といわれ、電車も使えず、歩いて作業現場へ向かう。朝早くから夏の暑い日差しの中の重労働・・・大人が縄で倒した家を片付けていく。そして8月6日に原爆は落とされ、お国のためと作業にあたった6,000人以上の子ども達が命を落としました。

東京から来た人の方が知ろうとしてくれている・・・と感じる場面もあるといいます。でもそう感じるのは、ずっと広島に住み、被爆樹木も石もずっと暮らしの中にあり、「そこら中にある」特別ではないからだと思います。だからこそ、ヒロシマを訪れた人に特別な「被爆樹木」や「被爆石」として伝えることが大切なのだと思います。

石碑を巡り、木陰でお話を聞く。その行動一つ一つが当時の少年少女の様子に想いを馳せることができた体験でした。

 

◆被爆証言をお聴きする集い(主催:東京都生協連)~滝本清也さんからの証言~

瀧本さんのお話では、「人間を消耗品扱いする戦争は絶対に起こしてはいけない。戦争は自然現象じゃない、起こそうとする人がいる。今、当時に似ている様に感じるのです。」とおっしゃっているのが、非常に印象に残りました。

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三日目8月6日(木)

◆平和記念式典への参列

70年の節目ということもあり、会場は大変多くの参列者が集まり、私たち一行は会場のテントの中に入ることができませんでしたが、多くの参列者と共に、平和の願いを込めて式典に参加しました。式典には過去最高の100か国が参列し、5万5千人もの人々が集まったそうです。外国の人の参加も大変多く見受けられました。青空が広がり35℃を超える猛暑日だったこの日、8時15分に黙とうを捧げました。70年前のこの日もとても暑くいつもと変わらない夏の朝を迎えたことでしょう。そんな何でもない日が一瞬にして地獄にかわってしまったなんて今の広島からは想像もつきませんでした。原爆が投下された8時15分は、多くの人が仕事や学校のために外に出ていただろう時間で、事実、原爆で被爆した多くは建物疎開作業のために外にいた小中学生たちでした。

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演劇「しげるくんの真っくろなお弁当」と平野貞夫さんによる被爆の証言

DSC01079.jpg平和記念資料館にまっくろなお弁当箱が展示されています。これは当時13歳だった折免滋くんのものです。しげるくんは原爆投下の朝、いつのもように建物疎開作業のために家を出て、被爆し、亡くなりました。その遺体から抱えるようにしてこのお弁当箱が見つかりました。あんなに楽しみにしていたお弁当すら食べることができずに亡くなってしまったしげるくん。このような罪のない多くの子供たちが犠牲になりました。

そのあと、被爆者の平野さんの体験をお話いただきました。平野さんは被爆当時、しげるくんと同じ年でした。「肉声で伝えたい」と、用意されていたマイクも使わずに立ったままお話しする姿がとても印象的でした。「とにかく水がほしくてほしくて」「生き残っても治療すらしてもらえず、支給された食用油と畑のきゅうりを絞ってやけどの傷にかけた。それがこの世のものとは思えないほど本当に痛かった」など生々しい体験談を話してくださDSC01086.jpgいました。また、ケロイドと呼ばれる被爆の後を見せてくださいました。現実に見たのは初めてでした。その傷で、私たちには想像もできないたくさんのご苦労やお辛い思いをされたと思います。体験談を話すのも見せるのも本当にお辛いことと思います。本当に戦争を繰り返してはならない、この経験を語り継いでほしい。その思いが本気で伝わってきました。それを聞いた私たちが、本気で答えなければならないと強く思いました。

 

◆ヒロシマ参加ツアーを通して・・・・・

平和ツアーに参加し、ヒロシマの地に立って感じられるものが溢れるくらい押し寄せてきて、どれほど記憶に残しておけるのか・・・と思います。被爆者の生の声を聞き、ヒロシマを知った体験を通して、記憶のリレーを繋いでいきたいと思います。

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